SMでは「支配と服従」が大きなテーマです。お遊びのSMや、ただの快楽の追求や、sexの延長に過ぎない(あるいはちょっとかわったsexにすぎない)ものではないSMにとってこれは、もっとも大切なものだと思います。

 もちろん、単純に娯楽性と快感のみを追求するSMもあると思いますし、私自身そうしたことを否定するわけではありません。しかし、そうしたSMはよく語られるものの、SMにおける共依存性(つまり、お互いがお互いに依存する関係)を、重視して、幸福を追求する手段という観点で語られることは少ないと思うので、ここではあくまでもその立場で話を進めようと思っています。

 私がこのことを深く考えるようになった理由はいくつかあります。
 まづ第一に、SM関係を経験し、そしてその関係が破綻した時に特にMの側が非常に深刻な心理的トラウマを持ってしまうことが多いということ。
 次に「SM関係だから」という言葉を単なる不倫の言い訳にして、一般的な不倫関係にある人とは自分は違うのだ、と勘違いして、一般的な不倫をしている人たちを自分よりも下の存在のように見たり、「不倫は悪いことだが、自分のはもっと崇高なものなのだ」などというバカな妄想を持っている人が少なからずいること。
 そして、何よりも、SM関係が永続性の持たないものという前提がSMに関係する人たちの中でまかり通っている例があまりにも多いこと。
 大きくはこの三点が私の執筆動機となりました。

 最初の問題はおそらく多くのSM関係者が、SMが人間の心理に与える影響を過小評価しているところからくると思います。詳しくはあとで詳述しますが、SMにおける支配と服従の関係はかなり大きな人間の心理的変容(変化などという生易しいものではなく)を与えることからくるのだと思います。

 次の問題を論じる前に私の不倫に対する立場をはっきりとさせておきます。私は不倫自体は悪いことだとは思いません。「不倫は文化だ」とまで言った人もいますが、その是非はともかく、当事者以外に迷惑や苦痛を強いないものであるならば、それは別に問題視するものでもないと思っています。しかし、ほとんどの場合そこまできちんとわきまえて不倫をしている人はまれなので、悪いケースばかりが目に付くのだと思います。

 さて、私の不倫についての立場を明記した上で、この問題について考えるとこの原因はずるいSが純情なMに対して、ごまかしをするケースか、共に勇気もなかったり、人間的に未成熟だったりする人たちが、SMを隠れ蓑に不倫を正当化しようとしている場合がほとんどだと思います。

 特にSはMに対して支配を行うわけですから、こんなごまかしは仮にMの側から提案されたとしても却下すべきだと思います。どんな趣味嗜好を個人が持っていてもそれは自由であり、誰に文句を言われる筋合いはないのですが、他人を害してまでそれを貫く権利は誰にもないのです。こうしたことを言うと、「私はちゃんとやっている」などという反論をする人がいますが、大抵の場合は「本人がそう思っているだけ」で、「知らぬは本人のみ」という形で人を苦しめているのです。

 最後の問題点に関しては、Sにとってはある意味都合の良い問題点であるといえるでしょう。「SMだから、関係は儚いもの」ということが「ある種の常識」としてまかり通っていれば、いつでもMが年老いて魅力を感じなくなったり、飽きたり、かわりにもっと魅力的なMを見つけて邪魔になったりした時にいつでも切り捨てられる根拠となるからです。

 しかし、これではMはたまったものではないでしょう。おそらくこれは、人間的に未成熟なままのSがMに影響を与えるだけ与えて、状況が自分の能力を超えてしまったときになすすべもないところからきている、ということもいえるのでしょうが、それ以前にSがあまりにも不甲斐ないから、ということになるのかもしれません。

 とはいえ、「Sの心得」などが教育されるわけでは当然ないのですから、そうした現状ではMの側が、Sの基本的な考え方と相手の能力の限界を見極めることでしか、自衛策がないのが現状なのだとも思います。

 こうしたことを考えていくうちに、私なりのSMに対するバックボーンが形を作ってきたので、それを1つの試案として書いてみようと思ったのです。

 さて、快感だけで言えばMの方が大きいとよく言われます。両方を経験した人は大体口をそろえてそういいますから、おそらくそう間違いはない事実なのでしょう。そこからでてきたのか、あるいは自信のないSがMをつなぎとめる為に作ったのかはわかりませんが、SMの世界で「SはサービスのS、Mは満足のM」という有名な言葉があります。

 しかし、これでは、つまりSの行為がMの快感に奉仕しているとすれば本質的に支配と従属の関係は逆転していることになります。だから、本質的な意味でSMとはMがSに奉仕する喜びであり、同時にSは相手に奉仕されるにたる人格を身に付ける必要が、いや、そうあり続けなければいけないという前提がある、というのが本来のSMなのだと思います。そうしたことを暗示する意味で、「SというのはMを経験するか、あるいは、それが良くわかっていなければいけない」というのが文献などにも良く出てくるのでしょう。Sは自分で自分の人格を高め、Mに対して常に指導的立場でありつづける。MはSに仕える事で、人格を高めてもらう、そしてやがてはその必要がなくなるまでに育つ。こうしたプロセスはある意味理想論に聞こえるかもしれませんが、それがすくなくてもMには必要な前提なのではないかと思うのです。

 ところが現実には、多くが途中で、あるいは初めからSとMの関係のバランスにゆがみを生じさせてしまい、Mがつぶれてしまったり、深刻なトラウマなどを残す結果になってしまう事が多いようです。これに反論しようと思うなら、1つ試してみていただきたいことがあるのです。それは、ネット上という限られたところだけの実験で結構ですから、ご夫婦で、という場合を除いて「40代」しかも「45歳以上」のM女性を探してみることです。Sならかなり高齢の方も比較的簡単に見つけられますが、M女性となるとほとんど見かけないといっていいほどいないという事実に気がつくでしょう。逆にネット上のM人口の最も多い割合を占めるのが30代であることを考えると、私が今まで述べたことが、実はかなり深刻な問題をここのM女性に引き起こし、そのフォローもできない無責任なSがいかに多いかを物語っていると思います。もちろん、これはあくまでも一例ですが、そんなに現実を分析する際の本質をはずしてはいないと思います。

 しかし、ここでSM関係の中できちんとした精神的バックボーンがお互いにあったらどうなるでしょうか。

 つまり、愛が二人の間にあることは自明の前提とした上で、SはMを支配していく中で、常に尊敬されるに足りる人間性の向上を自分に課し、MはそうしたSに服従することで成長させてもらう、という前提がお互いの中に共通のものとしてあった場合、今述べた問題点はほとんど解消されるのではないでしょうか。

 また、従属する必要がなくなったらどうなるかという疑問を持つ方もいるでしょう。これに関して結論を言ってしまえば、今度はその人が新しい人を指導する立場になればよいのです。その結果SとMが離れるか、離れないかはお互いの判断と考えでしょう。例えば、自分は自分のSの指導のもと更に自分を向上させ、同時に後進のMを指導していく、というのも当然あると思います。

 もっとも、Mの人がいくら人間的に成長したところでS性は持たずにMのままという場合もあります。この場合でも、自分のSが新しいMを抱えていくに当たっての手伝いをするなどという形で、「服従関係を保ちながら対等の共同作業」ということもありうるでしょう。このことはあくまでも一例ですが、そうした形で次の世代を育てていくということもありうるということは言えるでしょう。もちろん、これに限らなくても、そこまでの関係を築き上げたパートナー同士なら、お互いが一番納得できる形を自然と作っていけるのではないかと思います。

 支配と服従についての各論はまた後ほど書く予定ですが、このようにして、SからMへ、そして成長したMから、次の世代へとSとMの終わりなき連鎖が続いていくことが、SMがマイノリティーではあっても「1つの生き方」として存在する為には、必要なのかもしれないと思うのです。

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