「ヤプー」考   R

 沼正三氏という作家が書いた「家畜人ヤプー」という小説をご存知でしょうか。

 三島由紀夫が「最高の観念小説」と絶賛し,マゾヒストである沼氏の頭脳に浮かんだ「およそありとあらゆる妄想」が詰め込まれた一大奇小説で,かつて「奇譚クラブ」に連載され,それ以後も作者により何度も改訂され,出版されてきました。現在,もっとも入手しやすいのは,幻冬舎文庫版があります。

 大長編のストーリーを短く紹介するのは難しいのですが,まだお読みでない方のために大胆に要約すると…

 未来の宇宙帝国イースの貴族・ボーリーン(女性)は,タイムマシンでもある円盤で時間旅行中,機器の故障で196×年に不時着し,ドイツ貴族・クララ(女性)と日本人・瀬部麟一郎(男性)に出会う。なお,イース帝国では,第3次世界大戦の後,日本人は『ヤプー』と呼ばれる動物にまで退化しており,イース人は,そのヤプーを捕獲し,肉体的・遺伝的に改造して様々な家畜として調教し利用することが行われていた。

 ところで,ボーリーンは,当初自分が属する未来ではない時代(196×年)に不時着したことに気付かず,たまたま水浴びしていて裸でいた『黄色い獣』である麟一郎をヤプーと,また,白人女性であるクララを自分と同時代人のイース人だと勘違いしてしまう。そして,ボーリーンの飼い犬(もちろん,ヤプーを肉体的・遺伝的に改造したもの)が全裸でいた麟一郎を野性のヤプーと勘違いし,主であるボーリーンを守るために麟一郎に噛みつくという偶然があり,後に自分の間違いに気付いたボーリーンは,麟一郎を人間であると主張するクララの誤りを正すため(クララにしてみれば,自分の婚約者である麟一郎は日本人であり人間であるのが当然だが,ポーリーンにしてみれば,ヤプーであり,家畜に過ぎない),また,自らの墜落のミスを誤魔化すため,クララと麟一郎を自らの時代であるイースに連れて行くことにする。

 最初は,イースの女性上位の社会に戸惑っていたクララであったが,ポーリーンの使用人である黒人奴隷の間違いで去勢され,ヤプーとして扱われる麟一郎の惨めな姿を見ているうちに,かつては婚約者であった麟一郎をヤプーとして蔑むようになり,最後には,自分を生来のイース人と思うようになり,いまや完全に調教されたヤプーになってしまった麟一郎を飼い犬として跪かせ,その飼い主として麟一郎の上に君臨することになる

というものです。

 もちろんその間,小説の中ではイース社会の様々な側面,特にヤプーを家畜として種々の用途に使役する様子が紹介され,また,その途中でストーリーとは無関係に,「肉足台(白人女性の足乗せ台となったヤプー。主のテレパシーを感じ,その性的快感のため舌を使って主のヴァギナやクリトリスに奉仕する役割も果たす)」や「肉便器(白人女性の大小便を口で受けるよう改造されたヤプー)」の説明が延々となされることになります。かつて「奇譚クラブ」に連載されていた当時,日本人に対してあまりにも屈辱的・国辱的な内容のため(?)出版社に抗議に訪れた人もいたと言われるくらい,白人崇拝のマゾヒスト男性の妄想が,これでもかというくらいに綴られています。

 さて,沼氏の小説は機会があればご自身でお読みいただくとして,実は,この「家畜人ヤプー」という小説は,これまで2回にわたってコミック化されています。1回目は,石ノ森章太郎氏によるもので,2回目は,現在もコミックバーズに連載中の江川達也氏によるものです。残念ながら,現在では石ノ森版は絶版になっていて入手が困難ですが,江川版は,単行本が3巻まで出版されており,書店で容易に入手することが可能でしょう。

 そして,この小論のテーマでもありますが,書店で江川版の「ヤプー」をお読みになった方の多くが感じられるであろうことは,「江川達也氏は,本当はマゾヒストではないか」という疑問だと思います。

 石ノ森氏の描く「ヤプー」は,この長編小説を読者に分かり易くコミック化するため,基本的にストーリー重視で,ポーリーン,クララ,麟一郎の3人の出会いとその後の3人(正確には2人と1匹)の運命を中心に描かれています。それに対して,江川氏が描く「ヤプー」は,ストーリーはもちろんですが,その描く比重は,原作である沼氏がその頭脳の内部で長年にわたって抱き続け,発酵させてきた種々の妄想をひとつひとつ丁寧に描いていくことに置かれているように思います。例えば,先程も言ったとおり,原作の沼氏の「ヤプー」は,ストーリーの展開とは無関係に,突然,あるヤプーがどのような理由で家畜となり,どのような機能を持っていて,どのように主である白人女性に奉仕するかを,ページを惜しまず,丹念に書いています。その一例として「肉便器」について,沼氏は,白人女性がどのようにしてヤプーを肉便器に改造していくか,肉便器となったヤプーがどれほど崇拝の感情を主に対して持つかを丁寧に丁寧に,それこそ何ページもかけて書き連ねていきます。

 このような沼氏の文章を「粘液質の男性M」の妄想の産物と呼ぶならば,江川氏の描くコミックも,まさにこの「粘液質の男性M」でなければ到底描けないだろうと思えるものになっています。

 これを理解いただくために,ぜひ,機会があったら江川版のコミックの第3巻を手にとって読んでいただきたいと思います。江川版の第3巻では,ページのほとんどが原作の「肉便器」の説明に費やされています。そこでは,ストーリーの展開は無視され,沼氏の原作の1文が1コマに相当するくらいのゆっくりした速度で,「肉便器」の説明が描かれています。

 コミックを読むのがお好きな方であれば,どんなコミックでも結構です,原作付きのコミックを思い浮かべてみてください。夢枕獏原作・岡野玲子画の「陰陽師」でも結構,浅田次郎原作・ながやす巧画の「鉄道員」でも結構です。文章で書かれた原作をコミック化する場合,コミックの作者は,細部の絵にこだわる場合はあっても,ストーリー展開の速度を維持するために,原作の文章を大胆に省略してコマ割していきます。言い替えれば,いくつかの文章をまとめて1つのコマにしていくことで,コミック独特のストーリー展開を演出していきます。もし原作の小説の1文を1コマにして描いていたら,どれほどページがあっても原作を描きることはできないということは,容易に想像できると思います。

 しかし,江川氏は,あえてそのような,コミックではこれまで誰もやることがなかった説明調のコマ割で,この原作をコミック化しています。

 それは,読む者をして,「江川氏は,肉便器の細かい説明をコミックに描くことで,自らが肉便器になる妄想を楽しんでいるのではないか」と思わせるほどです。言い替えれば,沼氏が「ヤプー」を書いたのが,自分の妄想を文章化する快感のためであると仮定すれば,江川氏が「ヤプー」を描くのは,同じく,自分の妄想をコミック化する快感のためではないかと思えるのです。

 これが,沼氏と同様に,江川氏も「粘液質の男性Mではないか」という考えに至る理由です。

 さて,おそらく,同じMの性癖を持つ者が書いたものとはいえ,「自分はMではないか」と考えている女性であっても,あるいは自分がMだという自覚を持っている女性であっても、沼氏や江川氏の「ヤプー」を最後まで苦痛なしに読み通すことは難しいのではないでしょうか。と言うのは,「粘液質の男性M」が書く,あるいは,描く妄想というのは,作者が細部のディテールにこだわり,自らの妄想を細部まで書き,あるいは,描こうとするため,作者以外の者にとって,それを追体験して読み続けることに,苦痛を感じる場合すらあるからです。

そして,これは私の私見ですが,M女性が書く文章(コミックがあれば,それも含めて)には,主に対する切々とした愛情と服従の念が書かれ,あるいは,自らのM性を含羞とある種の誇りを込めて書かれており,そこには,自らを他者(特に,この場合は主)に理解してほしいという「想い」が込められていることが多いように思います。これに対して,粘液質の男性Mが書く文章(コミックを含む)は,作者には読者に自らの妄想を押し付けようとする意図はないとしても,あまりにも自分の妄想の細部を表現しすぎるために,それを読む者をして,ある種の苦痛を感じさせることかあるのではないか。江川版の「ヤプー」を読むたびに,そのように私は思います。

 つまり,粘液質の男性Mが書き,あるいは,描く世界を読む場合,好むと好まざるとにかかわらず,その男性Mの妄想の世界にどっぷり漬かって,その男性Mの立場で,妄想の細部を一緒に体験していかなければならないだろう…そのように思います。

 では,そのような苦痛があるかもしれないのにもかかわらず,私が,Mを自覚している女性,あるいは,「自分はMではないか」とお考えの女性に対して,「ヤプー」を読むようお薦めするのは,もっと言えば特に沼版の原作のさわりだけでもいいですし,あるいは,江川版の第3巻だけでもいいですから,読んでみることをお薦めするのには,もちろん理由があります。それは,逆説的な言い方になりますが,二人の奇才の妄想のすごさを垣間見ることで,M性を自覚している女性はもちろん,「自分はMではないか」と思っていらっしゃる女性にとって,「Mとしての自分」を理解するきっかけになるのではないかと思うからです。

 沼版や江川版の「ヤプー」を読んで,「とても,私は,こんな妄想にはついて行けないわ」と思われる女性は多いと思います。自分はMだと自覚している女性であっても,「とても,私はヤプーみたいにはなれないわ」と,そのように思う人の方がおそらく多いでしょう。けれども,ひるがえって,では自分はどうなんだろう,どこまでだったらできるだろうか,どこまでだったら望むだろうか…,そう自問自答してみてください。「ヤプーの世界には,到底ついて行けないけれども,でも,この部分だったら私も…」と思う部分は,ないでしょうか。「自分は,ヤプーにはなれないけれども,自分を受けいれてくれる主のためならば,……だったらできるかもしれない」,「主が望むならば,この部分はできるかもしれないし,やってみたい」と思う部分はないでしょうか。

 そして,もし,少しでもそのような気持ちを持ったのならば,その気持ちを自分なりにぜひ文章に書いてみてください。もちろん、メモ書きのようなものでも結構です。大切なのは「文字にしてみる」という作業だからです。
 特に,ご自分のことを,漠然と「Mではないか」と思っている方には,ご自身で自分の真実の姿を見つめ直すきっかけになるのではないかと思います。 
 この本を読んで、自分の思いを1行でも、2行でも文章にしてみるとある意味同じMでも「逆の側」から自分を見つめなおすことができて、新しい発見と感動に出会えるかもしれない、と思うのです。

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